ブックエンド付"the Lord of the Ring"一冊本
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袋小路屋敷を訪ねるガンダルフ、誰だろうと様子をうかがうビルボの様子を扉を挟んでブックエンドに仕上げた炯眼はなんというか参りましたとしか言いようがなかったり。
ブリスターズジャパンのこの完売商品と同じではないと思いますが。原作ファンの秘孔を突かれる感じで、いい年して「ほしいよ~」とジタバタ暴れたくなりますな。
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袋小路屋敷を訪ねるガンダルフ、誰だろうと様子をうかがうビルボの様子を扉を挟んでブックエンドに仕上げた炯眼はなんというか参りましたとしか言いようがなかったり。
ブリスターズジャパンのこの完売商品と同じではないと思いますが。原作ファンの秘孔を突かれる感じで、いい年して「ほしいよ~」とジタバタ暴れたくなりますな。
『終わらざりし物語 上 下』が河出から遂に出る。遺稿集 " Unfinished Tales " の翻訳である。
本邦トールキン研究会20年の蓄積が活かされた邦訳を買わずにおくべきか。
発売は12月12日あたりのよし。現在予約受付中なのは Amazon.co.jp だけであった。
たまには展覧会ネタなど。埼玉県立近代美術館で開催された『フェアリー・テイル ―妖精たちの物語―』である。右は図録(猫は内容と関係ありません(汗)。
カバーアートとなっているのはフィッツジェラルドの「鳥の巣の中の妖精たち」である。同行の友人とは
レオノーラ・カリントン(キャリントンとも)の名前など出したりして盛り上がっていたのだが、今見返していても、シュルレアリストの描く人ならざるものを思わせる何かがある。
そう、この妖精たちは、ひとの想念が見せたものなのだ。非在への憧憬、という。
黄昏の葦原にひっそりと人ならざるものが浮かび笛を奏でるマンの「夕暮れの葦笛の長い嘆き」などを見ていると、吹き抜ける風に葦が鳴る暮れ方に、ただ風が吹くのでなく、楽を奏するなにものかがひそやかに息づいていて欲しい、と願ってしまう心性(前提として、いないとの認識は必要不可欠だが)には、相当に共感できるのだが。
うむ、本邦に近しい例で言うならば。里芋の葉が露を零すとき、その陰に遊ぶ小さい人が居て欲しいと思う気持ちがあるからこそ、コロボックルの物語が心に残り語り伝えられてきたのだと思うのである。
コティングリー妖精事件の事例も然り。
英国で妖精画が隆盛を見たのは18世紀後半、フェアリー・テイルすなわち妖精物語の復権による。キリスト教の排他的傾向、さらにプロテスタント的厳格も手伝った産業革命の国らしい実利主義もあると思うのだが、伝承の物語の復権は英国では遅かったのだという。
その産業革命のもたらす人間性疎外はアーツ・アンド・クラフツ運動など復古的な人間性復活のムーブメントを生み出すのだが、それはさておき。というか妖精物語の復権とは無縁ではない。伝承の物語の採録や出版が、ナショナリズムの勃興と無関係ではありえないように。
やや早くピークが現れた文学的な妖精物語だけでなく、本にまとめられた伝承をふまえているらしき絵もあるのだが。かくあれかしとの願いを素直に形にした、というよりは、根底にある疎外ゆえの隔絶感があるように思えてならない。心だけ彼岸に行ってしまった妖精画家がリチャード・ドイルひとりにとどまらないのも、疎外されたおのれの想念が、かくあれかしと願う見えざる存在に、ただ想念のみの力で形を与えつづけた結果なのではないのだろうか。
その隔絶ゆえに、空想の存在は迫力を得、時に神気を備えて見えるのだろう。
しかし妖精画は美しい想像、稚気の産物と思われがちである。コマーシャルベースの意匠とか図案まで入れれば、その域を出ていないものがほとんどである。そういうものを求めて展覧会に来ている人も多かったようで、妖精の扮装で記念写真を撮れる子供向け企画コーナーもあったりしたのだが。植え付けられた芽が非在への憧憬まで育つ例もなくはなかろう。うん。
それにしても出口の物販コーナーには花の妖精(昔チョコのおまけに入ってたカードの絵柄です)グッズいっぱいだった。
しかしドイル挿画の" A Tale of Fairyland (The Princess Nobody)"を買ってしまったのは秘密である(汗。いやその、ドーバーのペーパーバックだし。でもアマゾンとの比較だとレート違いすぎ……あああ。後悔。
『フェアリー・テイル ―妖精たちの物語―』埼玉県立近代美術館 ~20031103
2004410~2004530 足利市立美術館にて公開予定
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本作のキモ、核心となるのはロケットである。とにかく飛ぶまでやりとおす、その一念である。
なんとしてもロケットを飛ばして宇宙に行く、行く先は火星である。なぜ火星なのかは作中で語られているし、大いなる共感をもってワタクシなどは読み進んだのだが。
なにか目的があって、そこに到達する手段として新技術を開発する、それがまあ常識的な発想だろうが。目的なく、したいからする、という衝動が理工系特に技術系の人にはあるようなのだ。
火星に行きたいから有人宇宙船実用化の端緒として宇宙ロケットを開発するんでなく、宇宙ロケットを作って打ち上げたいから作るのである。
こういう衝動を肯定的に見るのがSF好きの性向ではあるし、わたしはとても好きなのだが。
現実的には非常にあやうい部分を孕んでいる。ブラッドベリに代表される詩情は、そのあやうさを見えにくくしてしまう。
いやブラッドベリ自身は同種のあやうさをクールにとらえた短編も書いていたはずだ。
より正確を期すには、詩情があまりに強く印象に残るため、その感動を覚えている読者には見えにくくなってしまう、というべきだろう。
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本作『夏のロケット』は、過激派のアジトから発見されたロケット弾の報道から始まる。そう、いまさらここに書くまでもない、兵器開発と切り離すことはできないのだ、ロケット工学の歴史は。
そして、この種のあやうさばかりではなく。たとえば設定や展開の細部などには、見るからに「?」と理性が立ち止まる部分がある。現実的説得力を求める向きは、本作は穴だらけに見えるかもしれない。
少年の日の夢を実現させるため、作劇のうえであえて無視したと見る解釈も有りだろう。この主題なら許すという人もいるに違いない。実際、それだけの説得力はこの物語には備わっている。
しかし、それは話が逆だと思うのだ。
なんのヒモ付きでもないロケットを宇宙に飛ばす、それをロケット開発の黎明期でなく現代の日本で実現させるのは、これだけあやうく、あやしいことなのだと、はっきり提示されているように私には思える。
そんなあやういことでなく、実用的かつ現実的な宇宙開発が行われていてほしい。詩情に乗せられてしまう稚気ゆえのガムシャラさなんかなくても、火星にロケットが飛んでほしい。
太陽面フレアで日本の衛星が二つもダメになったというニュースを聞いたりすると、素人ながら切に願わずにはいられないのであった。
大団円的結末特に女性記者の行く末が引っかかるものの、まあ、続きは読んでみようかと思う。
(20031106)
『〈民族起源〉の精神史 ブルターニュとフランス近代』 世界歴史選書 岩波書店
bk1 Amazon 楽天ブックス 2,600円
『パソコンは買ったまま使うな! フリーソフトで作る快適環境』鐸木 能光 岩波アクティブ新書
bk1 Amazon 楽天ブックス 740円
今回注文の目玉は実は『〈民族起源〉の精神史』。ケルト本というか、ケルト的なるものの継承されぐあいの実態っていうか。
ちなみに買書1はボーイズラブ系、2はライトノベル媒体、3は一般向け歴史っぽい小説類、4は小説じゃない本す。
ポイント特典につられて楽天を利用してみましたが、岩波とかの在庫量が少ないのか、取り寄せ扱いになりました。
二週間は待たなかったけどね。まあ、たまたまかもしれませんが、ちょと後悔。
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